Riberal Days

劇症型心筋炎 ICU
2021/04/08
第40回 We are Riberal!!!
劇症型心筋炎闘病記③ 最終回
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信頼できるかかりつけ医を見つけてほしい

数回にわたって書き綴ってきた劇症型心筋炎の闘病記ブログ。
劇症型心筋炎は症例が極めて少なく、今もなお原因不明と
聞いているので、私の経験が少しでも劇症型心筋炎で闘病中の方や
そのご家族の方に役に立てばという思いで、
当時を振り返りながらブログに残してきました。
本当はまだまだ伝えきれていないこともたくさんあるのですが、
このコンテンツでお伝えするのは、今回が最終回。
最後まで精一杯書きますので読んでいただけたら嬉しいです。

<過去の記事>
劇症型心筋炎~発症から闘病生活へ~こちら
劇症型心筋炎~奇跡の生還から心タンポナーデへ~こちら
劇症型心筋炎~忘れられない看護師さん~こちら

今年の春で劇症型心筋炎発症から7年が経過します。
当時「3年前だったら救命できなかったかもしれない」と
医師から言われたように、医療とはゴールがなく
日々進化していることを肌で感じた闘病期間でした。
私が発症したときは、まだ体外式補助人工心臓を装着できる
病院がほとんどなく、限られた病院でしかできない治療と聞いていました。

最初に救急車で運ばれた病院では、心筋炎を見過ごされ、
何の治療もされないまま数時間後に家へ戻されました。

その数時間後に、2回目に再び救急車を呼んだ時に
別の大学病院へ運ばれ、そこで「急性心筋炎」「劇症型心筋炎」という
病名が初めてつきました。

劇症型というほどですから、その名の通り
短時間で急激に病状が悪化する病気です。
もし、2回目の救急車を母が呼ばなかったら、
母が私の元に来てくれなかったら、
私は、ひとり部屋で亡くなっていたそうです。
その話を聞いた時、思わず全身に鳥肌が立ちました。

もともと健康体で体力に自信があったこともあり
そこまで重症な状態に陥っていると私自身が思っていなかったので、
この劇症型心筋炎の経験から、私の中で
「ここまでは大丈夫、この状態になると危険」
と自分の体に目を向けるようになりました。
ただ、それは経験したからわかることです。
もちろん普段から健康に気をつけている人ならきっと異変に気づけるはずです。
少しでもいつもと違う倦怠感や体調の異変を感じたら
医療機関を受診してほしいというのが私が病気から学んだことのひとつです。

たかが風邪と思っていませんか。
でも風邪は自分だけの問題ではありません。
人に移します。
現に、私は人から風邪が移りそれによって
劇症型心筋炎を発症しました。
当時は、言えなかったんです。
風邪をひいている人の近くにたまたま座ったことで
風邪が移り、それが引き金となって心筋炎になったことを。
その人に責任を感じてほしくない気持ちもあり
医師や家族に原因や心当たりを聞かれても
はっきりとは答えられませんでした。

あとは、私は当時新天地へ越したばかりで、
土地勘がなくかかりつけの病院もなければ、
いきつけのお店もないそんな状況でした。
常日頃から、【信頼できる】かかりつけ病院(かかりつけ医)を
決めておくことの重要性も今感じています。

私は医療従事者ではありませんし、
劇症型心筋炎という病気を専門的に学んだことはありません。
でも、経験したから伝えられることはたくさんあります。

どうか、風邪を甘く見ないでください。
ご自身の体調変化に敏感になってください。
少しでも異変を感じたら医療機関を受診してください。

以前までは、体調不良でも仕事へいくことが正義だと
思っていました。

熱があっても自分が動けるのであれば、仕事へ行かなくてはならない。
体調不良でも仕事は簡単には休んではいけない。
軽い風邪くらいで休んだら迷惑がかかる。

そう思っていたんです。
でも今は完全にノーです。

風邪をひいたら会社は休みましょう。
風邪をひいたら休む勇気をもちましょう。
もちろんそれによって誰かに仕事で迷惑をかけてしまうかもしれませんが、
でもその誰かの命に迷惑はかけません。
でもあなたが無理して出社することで、
周りの人に風邪がうつり万が一のことがあったら、一生償いきれません。
人が一人休むことによって、回らなくなる会社なんて
会社に問題があります。(伝え方に語弊があったらすみません)

風邪をひいたら、外出と人との接触を控えて
体調が復活したらその分仕事も頑張ればいい。

あなたのその行動で、誰かの命が奪われるとしたら・・・
そう思って一人ひとりが行動できる社会になればいいなと
強く思います。

色々と厳しいことを書いてしまいましたが、
劇症型心筋炎の闘病中、一番救われたのは"人"でした。
名医と言われれる先生へ出会えたことで、
私の人生は死への道から、生への選択肢を与えられました。
以前の闘病ブログにも何度も書いてきましたが、
本当にみなさん素晴らしい方ばかりでした。
あたたかい方ばかりでした。

思い出はたくさんありますが、ちょうど七夕の時期に、
病棟のリフレッシュルームには短冊が飾られていました。
みんなで短冊に願い事を書こうという話になり、
それぞれペンをとり、願い事を書きました。
飾られている場所が、病院の中の病棟ですからみなさんの短冊に書かれている言葉は
「命」や「健康」に感謝する言葉が多かったことを覚えています。
一緒に書いた方が、笹の葉に結んだ短冊に目を向けると...



ご自身の病気のことではなく、私の健康を願う言葉が書かれていました。
もう感動して溢れ出てくる涙が止まりませんでした。
その方はご病気でいつも車椅子を利用していました。
ご自身の病気回復を願うことより、ほんの数日前に知り合ったばかりの
私の健康を願ってくれたのです。
感謝の気持ちを伝えた時に見せてくれた、その方の笑顔が今でも忘れられません。
私よりも早く退院されていきましたが、
今もその優しい笑顔と心で周囲の人をあたたかい気持ちにしているんだろうな、
お元気でいてほしいな、この写真を見るたびに思い出します。

一番つらかったICUでの闘病生活中は、写真をとる余裕もなく、
つらい記憶を残したくないからと写真に残すことを拒み続けました。
そんな中で、ICUでの治療中、妹が面会に来て撮影してくれたのが
このブログのTOP画像です。

余談ですが、これは人によると思うのですが、
お見舞いは、無理していかないでくださいね。
実は、お見舞いって大切な時間を割いて
自分に会いに来てくれるわけですから
申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちと両方があります。
本当に心打ち解けている友人が会いに来てくれる日には、
朝からワクワクが止まらないのですが、逆もありました。
お見舞いに行くことは相手を勇気づけることでもあり、
相手を疲れさせることもあるので、
本当に気心知れている仲ではない限りは、
容易にお見舞いに行くという手段を考えずに
退院して元気になったら会うという選択肢もひとつ持っているのも
必要な決断だと思います。

それが不思議なことに体調にも出てしまうんです。
仲良しの友人が来るときはワクワクが止まらないけど、
そうでない場合はドキドキが止まらなくなります。
「もし今日この後調子が悪くなったらどうしよう」
「気をつかうから、面会終わったら疲れるだろうな」
「当日体調悪かったらどうしよう」
と、気をつかって自分の体調に悪影響が出ることがわかってからは
限られた友人たちとしか会いませんでした。
感謝の気持ちを伝え、正直に「今は治療に専念する時期だから会えない」と話しました。
面会は遊びではありませんから、面会して体調悪化していたら本末転倒ですからね。

あと、「元気そうで安心した」という一言も
簡単に発するのはNGです。
面会に来てくれているのに元気でない自分を見せたくないから
元気を装っているだけですからね。
私も「元気を装えててよかった!」と思いながら
面会後ベッドに倒れこんで疲れて動けなかった時もありました。

でも本当に色々な経験をさせてもらいました。
もし劇症型心筋炎になっていなかったら私の人生は
全く違う人生になっていたと思いますし、
闘病期間を経て【真の思いやり】を学びました。

最後に私が伝えたい劇症心筋炎の予後

最後に、劇症型心筋炎の予後について私の経験を話します。
あくまでも私の場合なので、参考までに耳に入れていただけたらと
思います。

まず、病前と比べて心臓に違和感は感じ続けます。
自分もすごく心臓に対して神経質になりますし、
かかりつけ医がいないと何の判断もしてもらえません。
現に、私の今の居住地からかかりつけ医までが
県をまたぎ1時間以上かかるので、自宅近くの大学病院にも
カルテを置こうとしたところ、断られました。
「補助人工心臓をつけていた患者を診られる医師がいない」と。

退院してから、心臓が原因で再入院したことはありませんが、
BNP値は、いつも異常値です。
すぐ疲れるし、長く歩けないし、坂道もひとりではのぼれないし、
階段しかない駅は目の前が真っ白になるほどです。
重い荷物も持てません。
当たり前のようにできていたことが、できなくなります。
ただ、なかった命を生かしてもらえたのだから、
まだこの世で自分にはやるべきことがあると考えるようになりました。
それが私の今の支えになっているかもしれません。

あとは、親より先に死なないこと。

これに尽きます。
劇症型心筋炎になって、家族にたくさん迷惑をかけました。
私よりももっとつらい事実を家族は告げられていたことを
のちに知りました。

だから私が今できることは生きること。
そして時間が許す限り家族孝行をすること。
それができることであり、したいことです。

たくさんの管に繋がれて、毎日ベッドから天井を見ていた時は、
「私はもう正社員として働くのは無理かもしれない」
そう思っていました。
「少し前まで通勤していたオフィスにも、もう行くことはないのかもしれないな」
そう思ったら、当たり前なんて一気に崩れ落ちることを知りました。
何の予告もなく、急にガタガタと崩れ落ちるこの現実。
一気に色々なことを考えなくてはいけない状況でしたが、
まずは退院を目指そうとそう決めて、退院できる日までは
自分で自分の今後を決めないことにしました。
「もし会社から退職を言われたら、会社は辞めよう。」
その時はその時だ!そう思ったら気持ちがすごく楽になりました。
幸いにも、当時勤務していた新宿の会社は理解があり、
元気に回復するまで待っていてくれることを約束してくれ、
新宿の病院へ転院になった時には、同じ部署で働くみなさんが
会いに来てくれてすごく嬉しかったことを覚えています。
この写真は新宿の病院の病室から撮影した一枚。
梅雨の合間の晴れでした。せっかく18階の高層階に病室があるのに、
梅雨時期で毎日雨ばかり。
この病室からは、当時働いていた会社のオフィスビルを眺めることもでき、
「ようやく新宿へ帰ってきた!」
と復帰へ大きく前進した気分でした。



家族経営をスローガンとして掲げている会社だったので、
社員同士仲も良く、本当に恵まれていました。

その後、私は劇症型心筋炎による心的外的後ストレス障害に悩まされ、
退院後もそして今も別の障害を併発し、治療を続けています。

新宿の会社は、闘病後に復帰したものの、自宅から遠かったこともあり
体力が追い付かず退職の道を選びました。

その後、縁がありリベラルへ入社して、早いもので4年半が経過しました。

もし自分が障がい者にならなかったら、リベラルへ入社することも
なかったと思います。
きっと今でも新宿の会社に勤めていたかもしれませんし、
もしかしたら転職していたかもしれませんし、
子育てしていたかもしれませんし、
何も想像できません。

病気になっていなければ、流した涙の数も少なかったでしょうし、
痛い治療も受ける必要すらありませんでした。

でも、振り返るとあの時の涙はすべてが学びでした。
流した涙から人の優しさを知る時もあれば
現実の厳しさを知ることもあり
別れを知ることもあり...

約9か月の劇症型心筋炎闘病生活は
今もこれからも涙なしでは思い返せません。
本当にたくさんの経験をさせてもらいました。

まだまだ私も治療の途中です。
そして人生も挑戦の途中です。

今はリベラルで自分がすべきことをきちんと伝えていくことが
私ができることです。

一障がい者として、障がい者がもっと社会に認められるよう
頑張ります!
私が今正社員で働いていることを当時の看護師さんが知ったら
きっと喜んでくれるはず...
このブログ記事に目は留まらないかもしれませんが、
いつか元気に会える日まで、私は私の人生を歩みます。

劇症型心筋炎ブログに長くお付き合いいただいたみなさん、
ありがとうございます。

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