Riberal Days

リベラル社員 風船 誕生日
2019/05/27
第12回 We are Riberal!!!
みなさんこんにちは!リベラルの広報を担当している武田です。
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ただの疲れだと思っていたら、それが闘病生活のはじまり

私は、5年前に生死を彷徨う心臓の病気をしました。
心臓を動かしている筋肉にウイルスが感染し炎症を起こし、
心臓のポンプ作用が低下する病気、急性心筋炎。
その中でも、致死率が非常に高く、
事例も少なく発症が極めて稀な"劇症型心筋炎"でした。

数年前までは救命さえ難しく、今もなお致死率が高く
「生きていることが奇跡」と色々な場面で言われ続けています。

『一つでも歯車が合わなかったら、今ここにはいない』
約一週間眠り続け、目を開けた私が
手術の執刀医に言われた言葉です。

発症時、都内で一人暮らしをしていました。
4月のとある金曜日、朝から倦怠感がありました。
ちょうど決算期で当時経理職だった私は
「疲れがたまっているのかな?」
くらいにしか思わず、とにかく気力で仕事をしていました。
ところが、正午を過ぎたころから今まで経験したことのないような
非常に強い倦怠感へと変わりました。
それまで疲れても会社の人に「疲れた」と
言葉を発したことのなかった私が、後にも先にも
その日はじめて「今日はなんだか疲れてます」と
口にしたことを覚えています。
疲れが出ていることから生じる倦怠感だと思っていた私は
「土日ゆっくり休めば大丈夫」
そう容易に考えていました。

ところが、土曜日、日曜日と体を休めても
全く回復せず、どんどん悪化していく一方。
食欲もなく、ベッドに横たわり、動くことすらできない
状況になりました。
タイミングがまたも重なり生理になり、
そこで私は「生理になったからこんなにだるいのか」と
誤った判断をしました。
月曜日の未明、腹痛に苦しみそれと同時に胸痛を覚えました。
まだ朝3時頃でしたが、母親に電話をし、
救急車の手配をお願いしました。

救急車で搬送された先の病院での診断は【生理痛】
胸が苦しいと訴えましたが、
『生理痛がおさまれば、胸の苦しさもおさまるでしょう』
そう病院の先生から言われ、病院へ搬送されてから
数時間後、タクシーで家へ帰されました。

家へ戻ったあとも、私の症状はおかしくなるばかり。
トイレへ行こうと立ったところ、足がからまり
歩行すら困難になり、その場に倒れました。
その後しばらく気を失っていたようです。
どのくらいの時間だったのかはわかりません。
目が覚めた時には、もちろん倒れた状態で、
ここで自分の身の危険を感じました。
「母に助けを求めよう」
そう思い、なんとか力を振り絞って
携帯の置いてあるベッドまで這って戻りました。
携帯を手にし、やっと助けが呼べると思いましたが、
今度はパスコードが解除できません。
当時まだiphoneは指紋認証もなく、パスコードでの認証だったので、
そのパスコードの4ケタがどうしても押せないのです。
自分では押しているつもりですが、
意識が朦朧として、きちんと押すことができていなかったのです。
しばらく繰り返すうちにロックがかかってしまいました。
「もう疲れた・・・次にロック解除できなかったら
諦めて少し休もう」
そう決めて挑んだ、最後のチャンス。
「間違えないように・・・間違えないように・・・」
慎重に最後の力を振り絞ってボタンを押しました。
すると、ロックが解除され、なんとか発着信履歴から
母の携帯番号を選択し、呼び出しすることができました。
いつもは携帯の着信に気づかない母が、
朝のこともあったからか、すぐ電話に出ました。

母の『すぐ行くから』という言葉を聞き
とても安心したことを覚えています。
母が私の家まで来るのにかかる時間は約1時間半。
自分の気持ちを奮い立たせ、
気づけば「ここで記憶をなくしてはダメ」
とにかく必死に朦朧とする意識と闘っていました。
母が到着する頃には、意識が途切れる頻度が増えました。
タクシーで病院へ行こうと考えていた母と私でしたが、
母が私の異変を感じ、救急車を呼びました。
救急車に乗り、救急隊員が母に
「娘さんの容態は非常に悪いですので、覚悟してください」
と伝えていました。
私は、自分のことを言われているにもかかわらず、
命にかかわる状態まで悪化しているとは到底思っていませんでした。

救急搬送された大学病院で、一気に自分の周りを
たくさんの医療従事者が囲み、
まさかその日から約7ヶ月にもおよぶ入院生活がはじまるとは
想像すらしていませんでした。

病気を発症するまで、大きな病気や怪我もなく
毎日を過ごしていた私にとって、
闘病生活は、新しいことだらけでした。
まだ見ぬ世界を知るとはこのことかと、
身をもって経験しました。
「当たり前の日常がどれだけ幸せか」
ベッドで機械に繋がれながら、見上げた天井は
模様は同じでも、毎日見える景色が全く違いました。

闘病生活を振り返ると、
本当に痛くて辛い治療の連続で、
その痛さは壮絶でした。
闘病が決してキレイゴトでは済まされない
想像を絶する日々だったと記憶しています。

私の場合、集中治療室での治療が長く続きました。
たくさんの管でつながれた自分の体
装着された体外式補助人工心臓
独力で動けずベッドの上で全介護の日々
ずっと握りしめていたナースコール
目を瞑ったら死んでしまうのではないかと恐怖で眠れない毎晩

朝、窓から差し込むまぶしい朝日がどんなに嬉しかったか。
朝を迎えられた喜びは、胸が張り裂ける思いでした。

眠れない夜、ずっと寄り添ってくれた集中治療室の看護師さん
何度も私の元へ足を運んでくれた先生
機械で命を繋いでくれたMEさん
いつもベストを尽くしてくれた医療関係者の方々
そして近くで支えてくれた家族と大切な友人

当時も今も感謝を言い尽くせません。


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たくさんの人に支えられて

リベラル社員 医者 看護師

名前を出すのはどうしようかと躊躇いましたが、
私の命の恩人を紹介させてください。

私を救命するために熱意をもって動いてくれた
循環器内科 渡邉雅貴先生。
先生との出会いが私が"生きられる"きっかけをつくってくれました。

そして、私の手術を受け入れ、心臓に体外式補助人工心臓を装着してくれた
執刀医の心臓外科 西村隆先生。
どんな場所にいても、私が危険な状態になれば急いで駆けつけてくれました。

当時、集中治療室でお世話をしてくれたたくさんの方々。
看護師さんたちがいつも元気な声と明るい笑顔で
私が少しでも気晴らしができるようにと
最高の看護と医療で私の心と体と向き合ってくれました。
そしてその後の転院先の病院でも、医療に携わるすべての方々にお世話になり、
人と人との絆を感じた入院生活でした。
同じく入院している患者さんにも助けられました。
すべてが私のかけがえのない財産です。


発症当時は、もう二度と正社員での仕事はできないと思っていました。
 

だから今正社員として働いていること
働いている職場がリベラルであること
病気になってはじめて気づけたこと
出会えた人、生きるということ
当たり前の毎日が最高の幸せだということ


すべてが"奇跡"だと感じています。


「もし病気になっていなかったら・・・」
そう思ったことも当然ありますし、
今後の人生を絶望的に感じた時期もありました。
でも、ひとつ言えること。
それは、
【病気になってすべてが悪いことばかりではなかった】
ということ。

このメッセージが、いつか当時私がお世話になった
どなたかの目に留まりますように。
病気と闘うのは、ひとりではありません。
家族や周りの人も一緒に闘ってくれています。
今、病気で苦しんでいる方々が回復されることを
心からお祈りしています。

私もまだまだ乗り越えなければならないことがたくさんあります。
だから、一歩ずつ進んでいきます。ここリベラルで。

みなさんと共に回復への道を目指して進んでいきたいと思います。

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